独立行政法人 労働者健康安全機構広島産業保健
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センター通信

産業保健相談員レター 2022年12月 ~「無事是名馬」を超えて ~ 治療と仕事の両立に思う~

2022.12.27

産業保健相談員 木谷 宏

 かつて企業や組織で働く人々に浸透していた価値観に「無事是名馬(ぶじこれめいば)」がある。これは競走馬を指して、(能力が多少劣っていても)怪我なく無事に走り続ける馬が名馬であるとする格言であり、馬主でもあった作家、菊池寛の造語であると言われている。筆者も企業人としての長い経験があり、この言葉は常に自分の傍らにあった。古い話だが入社間もない頃に風邪をひき、体調不十分なまま会議に臨んだことがある。発言の未熟さと咳き込む姿を見て、上司は一喝した。「風邪は週末に治しておけ!たるんでいる!」理不尽とも思ったが、企業人として生きていく厳しさに身が引き締まった。

 それから20年ほどの時が流れ、経営企画部長として経営計画の立案を任されることになった。重要な任務に腕が鳴ったが、なぜか体調が優れない。体のあちこちに痺れと痛みが走り、ついには歩くことさえ覚束なくなった。急きょ検査入院となり、1か月間の療養生活が始まった。時間の経過とともに体調は回復したが、無事是名馬としての自信は崩れ去った。同時に、自分は決して「鋼鉄の競走馬」ではなく、病んだり悩んだりする「血の通った普通の人間」であることを認識することにもなった。今まで休まなかったのは、単に運が良かっただけかもしれない。自らの健康を過信し、病気や家庭の都合で休む部下や同僚を見下していた自分に愕然とした。

 さて、2016年に厚生労働省より「事業場における治療と仕事の両立支援のためのガイドライン」が公表されて6年が経過した。企業経験の後に学界に身を転じ、経営学を研究する立場としては、治療と仕事の両立支援は企業に人事管理の改革を迫る重要なテーマだと考える。従来の人事管理は「健康な日本人の男性正社員」というモデル人材に焦点を当てたものであり、治療を続ける従業員の存在を前提に組み立てたものではなかった。非正規雇用者の増加や女性の活躍、さらにグローバル化の進展などにより、ダイバーシティ・マネジメント(多様な人材の管理)が求められる今、企業は疾病を抱える従業員を多様な人材のひとつと捉えねばならない。働く誰もが要治療者になる可能性があることを日常から意識し、継続治療が必要となった従業員への対応を女性、高年齢者、外国籍従業員などと同列に進めるべきである。さらに、ワーク・ライフ・バランスの観点からも治療と仕事の両立は育児や介護と同様に重要な課題であり、従来の「無事是名馬」に代表される経営者の意識や組織風土の変革も図らねばならないだろう。